別に助けられたとも思っていない。
窓の外では、まだ女子生徒たちが聡を説得している。
結果的には助かったが、美鶴のことを"こんな方"というあたり、あまり気持ちのよい態度ではない。
誰だろうな? 見たことあったかな?
まぁ、私はいろんな意味で名も顔も知れてるから、むこうが知っててこっちが知らないってのも、不思議じゃないよな。
十分ほどたっただろうか? 聡に背中を押されその場を立ち去る三人。その姿を、美鶴はイライラしながら見つめた。
これじゃあ、この場所の意味がないじゃないっ!
戻ってきた聡へは視線も投げず、ただ態度で威圧する。
一方の聡は説得するのにしゃべり疲れたのか、ふーっと大きく息を吐くと、再び美鶴の前に腰掛ける。
「宿題?」
「はっ?」
「それ」
美鶴の手元を顎で指し示す。
「英語?」
「予習よ」
短く、そして冷たく答える。
「ずいぶんと人気ね。またボーリング?」
「いや、映画。試写会のチケットが当ったんだとさ。ほら、最近テレビでCMやってるヤツ」
「あぁ、アンタ見たいとか言ってたヤツね」
聡が見たがってるのを知って、必死で応募したのだろう。
健気なことで
肩を落として去っていった三人を思い出し、同情ではなく侮蔑する。
たかだか男一人に、なにもそこまで思い入れることもない。バカなヤツら。
思わず口元を吊り上げてしまったのを見て、聡が目を丸くした。
「何笑ってんだよ?」
「別に」
誰に対しても痴がった態度を取る美鶴を、聡は信じてはいない。昔の、聡と同じように笑いながら誰とでも楽しく会話していた頃の美鶴が今も存在していることを、信じている。
「別にってなんだよ。何? お前もあの映画見たい? 公開されたら見に行くか? たしか来週末だぞ」
「再来週に模試がある」
「別に数時間くらい息抜きしたって、かまわんだろ?」
「さすが名門私立校に編入できると、口から出る言葉も余裕ね」
嫌味たっぷりに返されて、さすがの聡も目を細める。
「相変わらず、そんな言葉しか言えねぇのかよ」
「言えません」
「いい加減、直せよ」
「直しません。必要ありません。それよりも」
口を開き、何か言おうとする相手を強引に制する。
「邪魔するなら、出て行って」
「邪魔なんかしてない」
「勉強の邪魔」
「こっちの方が大事だ」
「こっちって、どっちよっ?」
「俺とお前との放課後の会話」
笑いもせずにしれっと答える聡。一瞬言葉を失う。その直後に湧き上がる怒り。
「アホじゃないっ? 私にとってはどうでもいい――――」
「予習ってなんだよっ」
美鶴の手元から素早く教科書を抜き取る。
「ちょっ……」
慌てて伸ばされる手首を捕まえる。
「どうせ二ヶ月も三ヶ月も先の予習だろ?」
「そのくらい先をやっておかないと、みんなにはついていけないの。生憎と私には塾へ行くお金はありませんから」
「みんなについていく? 学年トップが良く言うぜ。そんなに勉強が大事か?」
「当たり前でしょう」
「別に多少順位を落したって、誰も退学になんかしねーよ」
「じゃあ、あれは何?」
美鶴が顎で示す先。先ほど女子生徒たちが立っていた場所とは、少しずれた位置に白髪の男性。細身の長身をまっすぐに伸ばし、手をかけた眼鏡の銀縁がキラリと光る。
「ヒマだねぇ」
呆れたように呟く聡。
「教頭って、そんなにヒマなのかね?」
「忙しくたって来るのよ」
微動だにせず直立不動のままこちらを見つめる。眼鏡の奥から解き放たれる鋭い視線を、正面から見据えて受け止める。時間でいうとわずか一分程度のことだろうが、美鶴には途轍もなく長い時間に感じられた。
男性は足首だけでクルリと身を反転させると、そのままゆっくりとした足取りでその場を去っていった。その背中が公園の緑の奥に消えてしまうまで、二人とも黙って見送った。
「でもさ、アイツだけだろ? 職員の中でこんなにお前のことを毛嫌いしてるヤツってさ」
「どうだかね?」
美鶴に覚せい剤の罪を擦り付けようとした数学の門浦だって、少なからず美鶴に不満は持っていた。他の教職員は違うなどと断言はできない。
まぁ…… だが
「アイツだけで十分よ」
吐き捨てるように呟く。力を入れて腕を引き抜くと、聡はあっさり手を放した。
「別にイメージダウンにもならないと思うけどね」
「きっとアイツにとっては、学校を穢されている気分なのよ」
良家の子女が通う唐渓高校において、美鶴のような境遇の生徒は異質だ。片親で、しかも母親は水商売。
「そんなにイヤなら、そもそも入学させなきゃいいのによ」
「成績では問題ないのに落したら、それも体裁が悪いでしょう。私みたいな人間は過去にも入学してる。ただ、ついていけなくて辞めちゃうみたいだけど」
「ついていけない?」
「資金がね」
唐渓高校は、良家の子女が通うという評判を売りにしている部分がある。だから美鶴のような生徒が潜り込んでくると、学校のイメージが庶民レベルにまで落ちてしまうのではないか?
教頭の浜島はそれを危惧しているのだ。
「今までの生徒は、資金難で早々に退学してったけど、私は一年通い続けた。そしてこの勢いで三年間通い続ける。浜島としてはそろそろ追い出したいのよ。この学校は庶民が通えるような学校ではない。社会的地位のある両親のもとに産まれた、選ばれた人間だけが通える学校だと、世間に知らしめたいのよ。だからあの日のことだって、今だに言ってくる」
「あの日のこと?」
「私が授業サボった日のこと」
美鶴は、覇気を含んでいた声色を、少し落した。
思い出したくない出来事まで思い出してしまった。
それまで一度も授業をサボったことなどない。そんなことをすればすぐに浜島に追求され、言いがかりをつけられ退学させられてしまうかもしれない。
だが、あの状況ではとても授業を受けることなどできなかった。
朝、登校してくる生徒で賑わう校庭。そのド真ん中で聡は声を張り上げて美鶴に告白し、そして―――っ
美鶴は思わず目を閉じる。
サイアクだ 忘れよう
大きく頭を振る。
忘れよう
そう言い聞かせて、目の前の教科書へ視線を落す。必死に集中を試みる。だが、忘れようとすればするほど、その感触が甦る。
――――――っ!
「あーっ もうっ!」
「なっ!」
呆気に取られる聡。美鶴も、突然叫び声をあげて立ち上がった自分に唖然とする。そして苛立つ。
なんで、こんなことになるんだっ!
当てのない怒りを目の前へぶつける。睨まれた聡はワケもわからず首を傾げる。
「なんだよ?」
「アンタ達のせいだからねっ」
「はぁ?」
間抜けた声を聞かされて、美鶴の苛立ちはさらに膨れる。
「そもそもこんな風になったのは、お前達のせいだぞっ!」
「こんな風って、何だよ?」
「朝からウザい女どもに取り囲まれるわ、ヘンな因縁をつけられるわ。挙句の果てに、こんなところにまで出没して私の邪魔をして」
「そんなことぐらいでイライラすんなよ」
穏やかに宥めようとする聡が憎たらしい。ファンクラブ会員のために私がどれほど迷惑しているのか、この男はまるでわかっていない。
「とにかく出て行けっ」
ビッと人差し指で出入り口を差す。
「もう我慢できない。出て行けっ!」
「何だよ、突然。怒んなよ」
「怒らせてるのはアンタでしょうっ!」
「別に俺があの子たちを連れてきてるワケじゃない」
「でもアンタのせいよ」
「なんだよ それっ!」
突然喚き散らされて、聡も心中穏やかではない。出入り口を指し示す美鶴の手首を、グイッと掴んで引き寄せる。勢いよく引っ張られてバランスを崩し、美鶴は前のめりになってもう片手を机についた。
「放してよっ」
「なんでそう毎日イラついてんだよ。不愉快だからって、俺に当るなよっ」
「アンタが原因なんだからねっ」
「俺だけかよっ!」
「アンタとアイツよっ!」
「それって、僕の事?」
剣呑な雰囲気の中に、沁みるように流れる声音。二人とも絶句する。
美鶴の指差していた出入り口。そのドア枠に肩を凭れさせ胸元で腕を組みながら、困ったような笑顔が揺れる。
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